日本古代の律令制下における「女帝(女性天皇)」の制度上の位置
付けを巡る研究史の一側面について、以前に紹介したものも含めて、
改めてここに掲げておく。「(大宝・養老『継嗣令』に見られる)『女帝子亦同』とする記述は…
女帝の所生子の身位についての注記であり、律令本来の父系帰属主義
からすると、子は父の身位を継ぐものであった。
ところが、母が帝位にあることで、その父系帰属主義に則った身位の
継承に変更を加えたのである。
…女帝も男帝と別なく、皇位継承者の再生産を担当するという面を
有していたのであった」
(成清弘和氏『日本古代の王位継承と親族』平成11年)「日本の継嗣令は、唐の封爵令を参考にして作られたものであるが、
中国では武照皇太后が即位するまで女帝即位の例がないことから、
日本の継嗣令皇兄弟条の『女帝子亦同』とする本注はまったく
独自のものといえる」
(荒木敏夫氏『可能性としての女帝―女帝と王権・国家』平成11年)「唐律令と異なり日本律令は『女帝』を一般的に規定している。
…日本令は『女帝の子も親王とする』規定をわざわざ書き加えている」
(吉田孝氏『歴史のなかの天皇』平成18年)「古代史学界では、すでに今回の高森(明勅)氏の
(皇位継承問題を巡る)問題提起の数年前から、成清弘和氏や
春名宏昭氏などにより…『女帝は男帝となんら変わるところの
ないものとして日本律令に規定されていた』
『日本の律令制では「女帝」は制度的に位置づけられ、
予定されていた』として、女帝の所生子が「親王」
(皇位継承候補者)とされる(「女系」継承の容認)と見なし、
『双方制』といふ親族組織に大きく規定されるものであつたと
いふ見解が複数の研究者によつて支持されてきてをり、これが
徐々に共通見解となりつつある。
この前提には、文化人類学の家族・親族論を援用しつつ、
古代日本の双系的(双方的)親族組織論を唱へた吉田孝氏をはじめ、
明石一紀氏・義江明子氏などの研究の展開により、『双方制』は
現段階で通説的な位置を占めるに至つてゐることが背景にある」
(神社本庁教学研究所『皇室法に関する研究資料』、
藤田大誠氏執筆、平成18年)「女帝が男性の天皇と同列に扱われていることは重要である。
その子も親王とされることから、奈良時代に多く見られる女帝の
皇嗣も男帝と同列にあり、当時の皇統に占める女帝のウエイトが高く、
そのため当時の有位層の実態としての認識が高いものであったと
想定することは可能であろう」
(中村友一氏『日本古代の氏姓制』平成21年)「大宝令文は『女帝』の出現を想定し、女帝の子・兄弟を皇位継承の
可能性がある『親王』と規定していることは重要であり、女帝の実子
の即位を想定したものである。この点は、いわゆる女帝中継ぎ論では
説明できない」
(仁藤敦史氏『古代王権と支配構造』平成24年、初出は平成15年)「新たな女帝研究が1990年代末以降つぎつぎに現れる。
荒木敏夫…。義江明子…。仁藤敦史…は、7世紀末以前の男帝と女帝が
およそ40歳以上で即位していることを示し、性差でなく年齢と資質
こそが即位の条件であったことを明らかにした。
これら近年の研究動向に共通するのは、性差を自明の前提とせず、
各時代の王権構造を明らかにし、その歴史的変化の中に男女の王を
位置づけようとする志向である」
(『戦後歴史学用語辞典』、義江明子氏執筆、平成24年)「注目されるのは…大宝令で、女性天皇の皇子女も、男性天皇の
皇子女と同様に、親王・内親王とするとされていたことである。
このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在であった
ことを意味する。
中国の律令を反映して、日本の律令では男系主義を採っているが、
その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に
関する規定であった」
(佐伯智広氏『皇位継承の中世史―血統をめぐる政治と内乱』
平成31年)以上、見落としも多いだろうが、取り急ぎ手元の貧しい蔵書を頼りに、
目に付いた若干の先行研究を抜き書きしてみた。
文字通り断片的なメモに過ぎない。
識者による補訂を期待する。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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